アルファベット順

城(しろ)

08/06/2015 18:48

→「しろ(城)

用例

橋谷は出雲で、尼子末流《ばつりゅう》である十四とき忠利に召し出され知行側役勤め食事毒味していた。忠利は重くなってから、橋谷のして寝たこともある四月二十六に西岸寺で切腹したちょうど切ろとする太鼓かすかに聞えた。橋谷はついて来ていた家隷《けらい》に、出て何時《なんどき》聞いて来い言った家隷帰って、「しまい四つだけ聞きましたが、総体《ばちかず》はわかりません」と言った。橋谷をはじめとして一座微笑んだ。橋谷は「最期よう笑わせくれた言って家隷羽織取らせて切腹した。吉村甚太夫《じんだゆう》が介錯した
森鷗外阿部一族」1913)
討手として阿部屋敷表門向うことになった竹内数馬武道誉れある生まれたものである先祖細川高国属して強弓得た島村弾正貴則である享禄四年高国摂津国尼崎敗れたとき、弾正二人両腋挟んで飛び込んで死んだ。弾正市兵衛河内八隅家仕えて一時八隅称した、竹内越領することになって竹内改めた竹内市兵衛吉兵衛小西行長仕えて紀伊国太田水攻めしたとき豊臣太閤白練日の丸陣羽織もらった朝鮮征伐ときには小西家人質として王宮三年押し籠められていた小西家滅びてから加藤清正召し出されていた主君物争いして白昼熊本城下立ち退いた加藤家討手備えるために鉄砲こめ火縄つけて持たせて退いたそれ三斎豊前召し抱えたこの吉兵衛五人男子あった長男やはり吉兵衛名のったのち剃髪して八隅見山といった二男七郎右衛門、三男次郎太夫、四男八兵衛、五男すなわち数馬である
森鷗外阿部一族」1913)
数馬忠利児小姓勤めて島原征伐とき殿様そばいた寛永十五二月二十五細川もの乗り取ろうとしたとき、数馬どうぞ先手おつかわし下されい忠利願った。忠利聴かなかった押し返してねだるように願う、忠利立腹して、「小倅勝手にうせおれ叫んだ。数馬そのとき十六である。「あっ言いさま駈け出す見送って、忠利怪我するなかけた乙名徳右衛門、草履取一人槍持一人あとから続いた主従四人であるから打ち出す鉄砲烈しいので数馬着ていた猩々緋陣羽織つかんであと引いた。数馬振り切って石垣攀じ登る是非なくついて登るとうとう城内はいって働いて、数馬負った同じ場所から攻め入った柳川立花飛騨宗茂七十二古武者このとき働きぶり見ていた渡辺新弥、仲光内膳数馬との三人天晴れであった言って三人連名感状やった落城のち、忠利数馬兼光脇差やって五十加増した脇差直焼無銘横鑢九曜三並び目貫赤銅縁金拵えである目貫二つあって一つ填めてあった。忠利この脇差秘蔵していたので、数馬やってからも登城ときなどには、「数馬あの脇差貸せと言って借りて差したこともたびたびある
森鷗外阿部一族」1913)
数馬傍輩から、外記自分推してこのたび当らせたのだ聞くや否や即時に討死しよう決心したそれどうしても動かすこと出来ぬほど堅固な決心であった。外記ご恩報じさせると言ったということであるこのはからず聞いたのであるが実は聞くまでもない、外記薦めるにはそう言って薦めるにきまっているこう思う、数馬立ってもすわってもいられぬような気がする自分先代引立てこうむったには違いないしかし元服してからのち自分いわば大勢近習うち一人別に出色扱い受けていないには誰も浴しているご恩報じ自分に限ってしなくてはならぬというのはどういう意味言うまでもない自分殉死するはずであったのに殉死しなかったから命がけ場所やるというのである何時でも喜んで棄てるさきにしおくれた殉死代りに死のうとは思わない惜しまぬ自分なんで先代中陰果て惜しんだであろういわれないことである畢竟どれだけ入懇になった殉死するというはっきりしたない同じように勤めていた近習若侍うちに殉死沙汰ないので自分ながらえていた殉死してよいことなら自分よりもさきにするそれほどことにも見えているように思っていたそれにとうにするはず殉死せずにいた人間として極印打たれたのはかえすがえすも口惜しい自分すすぐこと出来ぬ汚れ受けたそれほど加えることあの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことであるしかし殿様なぜそれお聴きいれになった。外記傷つけられたのは忍ぶこと出来よう殿様棄てられたのは忍ぶこと出来ない島原乗り入ろうとしたとき先代お呼び止めなされたそれ馬廻りものわざと先手加わるお止めなされたのであるこのたび当主怪我するなおっしゃるのはそれとは違う惜しいいたわれおっしゃるのであるそれなんのありがたかろう古い新たに鞭うたれるようなものであるただ一刻早く死にたい死んですすがれる汚れではない死にたい犬死でもよいから死にたい
森鷗外阿部一族」1913)